図書室あと地

褪せた灰桃色のカーペット。

カラフルな(に見える)生活のこと、なりたい自分、ときめきの話。

 

2人、ということのパワーはすごいんだなと思った。

趣味や嗜好の幅が広がる。共通なら深まる。掛かってる音楽とか、ラグとか壁掛けのデザイン、ゲームとか、置いてる調味料の種類とか。

とってもカラフルに見える。見えない見せない部分はあれど、2人で力を合わせて作っているんだなとわかる暮らしは、もし私が家庭を持てるならこんな風でありたいと思うものだった。

 

理想の2人、なんて言ったら失礼なんだろうな。カラフルな時間があればモノトーンな暮らしもあり、泥臭い寒々しい場面だって抱えている。と思うから。

その上に立っているきれいなところだけ見て、羨ましいなんて言うのは傲慢なのかもだ。

 

今ある生活を楽しんで、幸せに生きていくことを選んでいるひとは何だか眩しい。

私は今の環境に危機を感じて、今の自分が好きではなくて、このまま枯れてたまるかと、何とかかんとかもがいてしまう。

今に満足しながら、少しの「足りない」をだんだんと揃えながら生きていくのもありなはずで、そうやって生きている人もいる中で、なぜ私は。

破壊と創造みたいな、0か100かみたいな生きかたを選んでいるんでしょうか。

 

服の嗜好も音楽の趣味も、お気に入りの過ごしかたも、何に時間を使うか、どんな自分になるのか、あらゆることについて、

私はこうしたい、が結局見つかっていないこと。

人間性を育てるはずの思春期に、人間をサボってしまったツケ。

そういうものが廻ってきているんだろうね。

 

今は砂漠の真ん中にいて、立ち尽くせば間違いなく枯れる、だから進むものの、前がどっちか本当はわかっちゃいない。先がまともに見通せない中、歩くのも苦しい。

『砂漠の果てに咲く花』

なんて、植田真梨恵はよく言ってくれた。

 

https://g.co/kgs/KWZ2Px

 

 

さて、なりたい自分をかなえる手段としてのときめき、なんて邪なことを考えた。

周りの爛れたような話だったり、甘酸っぱ!な話を聞くにつけ、

私が今なにを思っても何の意味もないけれど、「恋をすると可愛くなる」部分だけ、しれっといただいてしまおうか、なんて。

恋を莫迦にすると痛い目を見るかね。

そんなことをしてでも、私は進んで行きたいのです。

ここじゃないどこかへ。

この願いにいつまで呪われつづけるんでしょう。

そうそう 私は今おおかたの人間を見下している

自覚があるので書き残していく

 

どこにある気持ちも きれいなものがない

 

日常はおろか 夢や希望までうすぎたなくて

それを改める気持ちも起こらない

 

やっぱり半年くらい冬眠したかった

生きることに対するやる気の低下

それに尽きる 逃走用のアドレナリンも切れてきた

結局逃げきれてないし

 

足掻いているのは、今のまま生きることに耐えられなかったから

働いて、休日は乾物みたいにじっとして

おしゃれとか、必要がないのでする気も起きない

メイクもいいや

会いたい人は昔からの友人 それもごくたまに

ほしいものは特になし

時々カラオケに行って、誰もきいてくれない歌を歌って

そういう 枯れたみたいな生き方がいやで

そしたら突然 道が分かれているのが見えた

だからそっちへ、進んでみようと思った

 

そのため、どうしても叶えなきゃいけないことは

相変わらず何ひとつ持ってない

別に投げ出してもいいといえばいい

また生きることに絶望するけど

そこから逃げるには夢がいる?

 

 

アイデンティティの瓦解 と書いて異動と読みます

逆かな どっちでもいい

みんな3年間で3回くらい経験してみればいい

自分というものが割とどうでもよくなる

 

テンションがさ

仕事上合わせなきゃいけない誰とも合わず

どこもかしこも いや居心地

合わせる気がなくなった私がたぶん悪い

いつからここまで性格が悪くなったかな

できればいい人間になりたくて 7年経ったらしい

諦めどきか

生きていけるんだろうか

 

はあ 滑舌

他人に優しいあんたにこの心がわかるものか

だって近くにいたって誰もちゃんと見てはくれず

手を伸ばし抱き止めた激しい光の束

そんな器用に ああ 生きられない

 

だから私は普通に生きることを諦めた

 

 

いつか今の会社を辞めて転職するんだと思っていた

3年目の異動があって1年 この1年がもし普通に過ぎてくれていたら 思い描いた路線はきっと変わっていなかったんじゃないか と思う

 

 

春、歌を辞めた

夏、車の中でヨルシカの思想犯ばかりきいた

角を曲がった秋、スカートを切られた月曜日の朝、弦楽器の音は悲鳴に似ている

起きて戦えと誰かが言った

冬、退勤後に歌って帰った夜明けの孤独

 

 

心が蘇生して気がついたとき、仕事以外の余白に何もなかった

なんとなく欲しかった普通の幸せに、手を伸ばすことも怠く

ヨルシカの歌をききながら映画館の街を歩いた

ひとつだけ観たい映画を決めて

 

残りわずかな座席で前側のチケットを買って

ひとりの女の子が壊れる映像を受け取りながら、呼吸をすると背中が痛かったのをちゃんと覚えている

わかるな、という感覚は錯覚かもしれないけれど、そこが曲がり角だったのは間違いない

映画終わりに食欲を失いながら食べたハンバーガーがまた、おいしかった

 

結局同じ映画を3回観た

予告で観た映像と台詞と歌が気になって、別の映画も観に通った

平日は会社、休日は映画館

そんな生活をしているうちに、少しずつ腹が決まっていた ように思う

 

人生の何かを諦めていなければこんな決断はしない

普通に生きて、なんとなくの希望に向かってそれなりにエネルギーを使って、普通の範疇にある小さな幸せを叶えていく

そういうことができない だから諦めた

もし目指し続けていたら、何もできないまま時間とともに枯れて死ぬような気がした

 

こんな日々も何かになったらいいね

もし何にもならなくても、ずっとぼーっとしているよりはマシだと信じている

語り口のいい文章を書きますね。

「語り口のいい文章を書きますね。大学に入ったら小説でも書いてみたらどうですか」

 

大学進学の進路報告書をメールで送ったとき、高校の進路指導の先生は私にこんな返事を書いて寄越した。

あの人は私なんかにどんな物語りができると思ってくれていたんだろう。

 

ごめん、ミスターアルパカ。まだ一つとして形にしないうちに私は、こんなだ。

尤も、あなたはもう私にそんな言葉をかけたことも覚えていないだろうね。

 

「頭いいね」「物知りだね」「声かわいいね」

そんな褒め言葉たちが、正直言うと嫌いだった。

だけど私の文章をいいと言ってくれたその言葉は、今でも一言一句忘れず憶えているくらい、嬉しかったのに。

今だって未練だ。書きたいことなんてわからないのに。

 

なきごとを書きたいわけじゃない。正しい言葉とマナーで、だれが言っても同じようなことを書きたいわけでもない。

校門脇の木の下で羽化したばかりの蝉が白いまま死んでいた。そんなことを言っても誰も振り向いてはくれなかった。でも、どうせならそんなことを選んで書きたい。わからないでいい、わかって堪るかと思いながら、そんな言葉が実は伝わってしまうことも知りながら。

 

 

"疲れた。生きている意味が見えない。がんばってもがんばっても「がんばりましょう」しか貰えない。戦って前に進むその先に欲しいものは何もなかった。それなら何が欲しかった?"

こんなことはあまりにも剥き出しだ。物語りくらい、報われる努力と叶う願いの夢が見たい。

 

"ノエラ。君の目はなんだかさびしかつた。だから何処かへ行つてしまつたんだらう。そんな目をぼくは好きだつた。さういう目をみると、今でも心を離すことができない。"

嘘ではないが今の心にはない言葉だ。これを書いて何の意味があるだろうか。

 

 

この世界は空の底だ。溺れていることに皆んな気づかない。

風の強い日は、どこかで世界が変わるのだと思っていた。千尋が迷い込んだときも風が吹いていたように。

わかり合えてしまう言葉なんかいい加減だ。

心の形に言葉を当てろ。そんなきれいでたまるか。

普通への擬態

「普通に見える、って言ってる時点で擬態なんだよ、こいつは普通のキノコのふりしてる毒キノコなんだ」

私の友達が私の別の友達に言った。

言われた友達は言った。

「普通は私の永遠の課題だから」

 

誰か、私が自分のことを指して、人間の擬態を頑張っていると言ったことを覚えているかい。

言葉の形が似ているだけで、私が感じていることと彼女のそれは同じではないだろう。

 

でも痛いほどわかる、と感じてしまった。

少しだけ、生き方が似ていたのかもしれない。

 

彼女が夫のことを指して「一番の理解者と言っても過言ではない」と言ったこと、忘れたくないので書き残しておく。

あの2人の在り方が、前から好きだった。

穏やかで、あたたかくて、うまいこと力が抜けていて。

今、私が見える限りのことではあるけれど。

恋人とか夫婦とか、その良さとかぴんと来ないけれど、

彼らは人生をよい形で過ごしていると思うから。

羨ましいといって手に入るものではないからちょっと違うけど、もし私に別の世界線があったら、あんな風にもなってみたかった、と。

 

そんな彼らと同じ世界線の私は、人生をすり減らし、浪費する。

今の私のことは嫌いじゃないけれど、私の今が気に入らない。

たぶんどこかが壊れかかっていて、おかしなことになりかけている。と思う。色んなことがあまり楽しめない。自分の気持ちを何とかするのに手一杯で、ほかのことに心が向かなくなっている。

何がそんなに重いのかわからないけれど、私は必要以上に持ちすぎているんだろう。

 

立ち向かう歌をきいては奮い立ってしまう。呪いか何かのレベルで、頑張ること、切り開くことに心惹かれてしまう。

もっといい加減でも、何ができなくても、大丈夫なはずなのに。

 

少し前、「楽しくない」と嘯けば、持ち前の軽い多弁がいくらでも返ってきたことが懐かしい。

正しくなくていいから、くだらなくてもいいから、たくさんの視点と選択肢を見せてくれたあの無駄話に救われた。

また聞きたいとも思うけれど、それをあてにして求めるのも健全ではないような気がする。

誰かに救われることを願わなきゃいけないところまで、本当は一人で来てはいけなかった。

 

偽らざる本音から出る言葉は、悪気もないのに神経を逆立てる、ことがある。

でも偽りのない言葉だから、まっすぐに届き、まっすぐに受け取れることもある。

「私は本音で語り合ってはいけない人種だから」

「擬態」を備えた友達が言う。

同じテーブルには、彼女を「毒キノコ」呼ばわりした友達がいる。本音を包むオブラートを忘れてばかりの彼女は、人を不快にさせることと、人をハッとさせ、気持ちを少し軽くさせることが得意だ。私はそう思っている。「擬態」の彼女も、似たようなことを感じているんじゃないかなぁ、なんて。

 

人間みたいなまともさが欲しかったけど、まともじゃなくても楽しく生きていたい。

ときには埋もれたいよ

眠れないから書くよ

 

今の自分の顔つき、笑い方、あれ前からこうだったっけ私というものは、と最近思う

 

なんかひとことで表せば疲れてそうなんだと思うけど

前よりもしっかりと社会でやってけそうな人間になった、その代わりに鋭くなったというか、柔らかさみたいなものが一部消えた気がする

 

社会人なんてみんなそうかもしれないけど、なんだかずっとひとり何処かから飛び出ている気がする

 

学生のときは、どちらかといえばずっと埋もれていた

私より強いひと、しっかり者のひと、行動力があるひと、尊敬できるひとばっかりで、私はついていくだけだった。見上げるだけの自分を不甲斐なく思ってもいた

 

できない人よりできるひとのほうがかっこいい。行動しない自分より行動できる自分でありたい

そんな行動基準でやっていくうちに、「私がやるしかない」ことが増えてきた

任されることも、自分から首を突っ込むことも

首を突っ込んだ挙げ句その首が締まることも

 

眠い、寝る

まぁ言いたいことは、今のポジション慣れないし疲れたねって

誰か私のナナメ上にいて引っ張ってくれないか