図書室あと地

褪せた灰桃色のカーペット。

普通への擬態

「普通に見える、って言ってる時点で擬態なんだよ、こいつは普通のキノコのふりしてる毒キノコなんだ」

私の友達が私の別の友達に言った。

言われた友達は言った。

「普通は私の永遠の課題だから」

 

誰か、私が自分のことを指して、人間の擬態を頑張っていると言ったことを覚えているかい。

言葉の形が似ているだけで、私が感じていることと彼女のそれは同じではないだろう。

 

でも痛いほどわかる、と感じてしまった。

少しだけ、生き方が似ていたのかもしれない。

 

彼女が夫のことを指して「一番の理解者と言っても過言ではない」と言ったこと、忘れたくないので書き残しておく。

あの2人の在り方が、前から好きだった。

穏やかで、あたたかくて、うまいこと力が抜けていて。

今、私が見える限りのことではあるけれど。

恋人とか夫婦とか、その良さとかぴんと来ないけれど、

彼らは人生をよい形で過ごしていると思うから。

羨ましいといって手に入るものではないからちょっと違うけど、もし私に別の世界線があったら、あんな風にもなってみたかった、と。

 

そんな彼らと同じ世界線の私は、人生をすり減らし、浪費する。

今の私のことは嫌いじゃないけれど、私の今が気に入らない。

たぶんどこかが壊れかかっていて、おかしなことになりかけている。と思う。色んなことがあまり楽しめない。自分の気持ちを何とかするのに手一杯で、ほかのことに心が向かなくなっている。

何がそんなに重いのかわからないけれど、私は必要以上に持ちすぎているんだろう。

 

立ち向かう歌をきいては奮い立ってしまう。呪いか何かのレベルで、頑張ること、切り開くことに心惹かれてしまう。

もっといい加減でも、何ができなくても、大丈夫なはずなのに。

 

少し前、「楽しくない」と嘯けば、持ち前の軽い多弁がいくらでも返ってきたことが懐かしい。

正しくなくていいから、くだらなくてもいいから、たくさんの視点と選択肢を見せてくれたあの無駄話に救われた。

また聞きたいとも思うけれど、それをあてにして求めるのも健全ではないような気がする。

誰かに救われることを願わなきゃいけないところまで、本当は一人で来てはいけなかった。

 

偽らざる本音から出る言葉は、悪気もないのに神経を逆立てる、ことがある。

でも偽りのない言葉だから、まっすぐに届き、まっすぐに受け取れることもある。

「私は本音で語り合ってはいけない人種だから」

「擬態」を備えた友達が言う。

同じテーブルには、彼女を「毒キノコ」呼ばわりした友達がいる。本音を包むオブラートを忘れてばかりの彼女は、人を不快にさせることと、人をハッとさせ、気持ちを少し軽くさせることが得意だ。私はそう思っている。「擬態」の彼女も、似たようなことを感じているんじゃないかなぁ、なんて。

 

人間みたいなまともさが欲しかったけど、まともじゃなくても楽しく生きていたい。

ときには埋もれたいよ

眠れないから書くよ

 

今の自分の顔つき、笑い方、あれ前からこうだったっけ私というものは、と最近思う

 

なんかひとことで表せば疲れてそうなんだと思うけど

前よりもしっかりと社会でやってけそうな人間になった、その代わりに鋭くなったというか、柔らかさみたいなものが一部消えた気がする

 

社会人なんてみんなそうかもしれないけど、なんだかずっとひとり何処かから飛び出ている気がする

 

学生のときは、どちらかといえばずっと埋もれていた

私より強いひと、しっかり者のひと、行動力があるひと、尊敬できるひとばっかりで、私はついていくだけだった。見上げるだけの自分を不甲斐なく思ってもいた

 

できない人よりできるひとのほうがかっこいい。行動しない自分より行動できる自分でありたい

そんな行動基準でやっていくうちに、「私がやるしかない」ことが増えてきた

任されることも、自分から首を突っ込むことも

首を突っ込んだ挙げ句その首が締まることも

 

眠い、寝る

まぁ言いたいことは、今のポジション慣れないし疲れたねって

誰か私のナナメ上にいて引っ張ってくれないか

対流圏の底から

誰かが死んだと聞くたび、そういえば生き残った自分を見返す。すくいあげられた自分。所詮簡単にすくえる浅瀬で溺れかけた自分のことを。

海の底なんかじゃなかった。目を閉じていたから昏かった。目を開ければきっと、水面が光を反射して眩しかったんだろう。

伸ばした手は空の底を掻いた。

地学の教科書に載っていた地図。高校生の私はろくに授業なんか聞かないで、ああ地上は対流圏の底なのか、とか考えた憶えがある。

そんな呼び方を16,7歳の私は気に入って詩に織り込んだ。ランボーみたいだと言われたことは今でも忘れずにいる。あのとき読んでいたのは萩原朔太郎。当たらずとも遠からずか。言い回しがすぐに感染る。

空の底に沈んだ世界。

そんな言い方をしても、現実が綺麗になるわけでもないけど。

 

消えてなくなりたいという感情は実はあまり覚えがない。

小学4年生はたしか9才だったか。当時クラスのほとんどからばい菌扱いを受けていた私は、体育の時間に背の順2列で体操をしていてあることに気づいた。

隣同士の2人組でバディを組む。私の隣は意地悪な女の子で、私のひとつ後ろの子はその子と仲が良い。

私さえいなければ、この子達は友達同士でバディを組めるのではないか。

頭の中で自分のいない背の順を組み直す。他の列のバディも概ね、仲の良い人同士が並んだ。

ひとり抜けただけでこうも歯車が合うのか。隣の彼女が意地悪なのも無理はないと思った。だって私が邪魔をしているんだから。

私がいないほうがみんな幸せになる。

そして私自身も、ここにいないほうが幸せ。

そこまで考えて、諦めた。私がそこにいることを。

邪魔になっている。迷惑をかけている。ごめんね、居なければよかったねと思う。でも仕方ない。そこに居てしまったから。みんなにも諦めてもらうしかないなと勝手に思いながら、列を眺めた記憶がある。

人のために退けない、そのときから不親切で気の利かない子どもだったとも言える。

自分が存在する事実を諦めて、そのとき置かれている状況についても考えるのをやめた。

これで理不尽をくぐり抜けてしまったものだから、諦めるという基本姿勢が身についたのかもしれない。

 

ただ、諦めたところで苦しくて仕方がない場合だってある。苦しみは目に見えないから、壊れるまで待とうかと思ったりしたこともある。逃げ出すことが、周囲からもまっとうに見えるように。

あのとき「消えてなくなる」選択肢も手を伸ばせば届くくらいにあったんだろうか。なぜかいつも見向きもしない。

とまれ私は生き残っている。自分の力だけでなく、たしかに他人の手を借りて。

出来ることならこれからも、溺れるならば人目につくところにしたい。

表現の居場所

日常で歌える場所が車の中だけになって久しい。

運転中は歌は歌えるのだけれど、走ってぶつかるわけにもいかないから加減が要る。言葉の流れとか声の行く先のこと、自分の感情から何を引っ張り出しながら歌うのか、考えることは減った。ただそれらしい声色を出すことだけが上手くなる。

歌、きっと下手になった。

歌ではなく声だと、音楽でなく音だという誰かの声が聞こえる。そんな気がしてくる。

歌いたい。

 

言葉にしたことだけが真実とはいかない。先週みた映画のことを考えていた。忘れることができないほど心に落ちた。

彼女に惹かれる理由。

金曜夜の音楽番組が好きだった。生まれ変わるなら今度はピアニストになりたかった。心が動く、根元は同じだろう。

表現。

別にしなくたって幸せに生きてゆける。しないで生きていけば、追求する苦しみを負わないですむ。

けれど、そちら側を見つめる人たちに、そんな彼らが生み出すものに魅せられてやまない。

客席にいるから、一層眩しいのだろうか。

どうせ毎日生きてるだけで苦しいなら、

うたをうたって生きた、かった?

今はどうか、

 

声も上げずに澱になって。

幾山河越え去り行かば

苦しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 

元の句は中学生のとき教科書で読んだ 寂しさがなくならないことを詠み手は知っているのでは と感想に書いた覚えがある

当たり前のことを書くなって話だが

 

 

苦しいことから逃げ切りたいだけなんだが上手くいかない

明日の仕事に戻りたくない

頑張った順で頑張らざるを得ない状況に立たされるのでやはりそろそろ降りた方が身のためか

期待なんかしてくれるな

私はもう甘ったれでも、できるのにしない愚図でもみんながやってることもままならないごみでもいいから

できると思う、やってみなよと言わないでほしい

実際にできるかどうかというより精神衛生に悪い

一度しっかり失望してくれ

私がどうしようもないやつだとちゃんと認めてくれ

 

映画を見た

消費される苦悩と孤独

遂にフィクションでも再現でもなく、生の人間が病んでのたうち回る姿を国中の見世物にする時代がきたらしい

「まるで何かの景色みたいに映ってるんだろうな」

言葉通り

刺激に慣れるなんてろくなもんじゃない

短調の和音で耳を塞ぎ、チョコレートでのぼせた時代まで一度戻ればいいのに

 

鼻の奥に溜まったらしい膿がなかなか出切ってくれない

喉の痛みもこれのせいだと思うのだが、良くならないし悪化もしない

どうして風邪もまともに引かせて貰えないのか

今熱が出れば暫く休めるかもしれないのに

 

くしゃくしゃに丸めた紙みたいな自分で都会を歩いた

音で耳を塞いで どこを見ているかわからないみたいに歩いて

存在感がなくて 黙っていて ちっぽけな自分は子どもっぽくてひどく懐かしかった

とても楽で 好きな感覚だった

明日にはこれをしまって、今の自分に戻るとか

大人になるってやっぱり碌なことじゃない

そして戻すのが大変だから、休日は何もしないほうが抵抗が少なくていい

はいつまんない休日がきました、平日は仕事で休日はつまんないって20代の人生としてどうなんだろうか

 

だから自分で完結できることで何かおもしろいことできないかなと考えては考えるだけで止まったままだったり

 

ジャンキーな人間関係の余韻がうるさい

 

 

前提のはなし、ここの文章はファッションメンヘのきらいがある よ

 

図らずも日記みたく使っているときもあり、わりとそこは感情そのままかもしれないが

 

退屈だとか寂しいとか懐かしくて息が苦しいとか情けないとか、そのほかのとげとげした不満とか

書きものとしての文章を書くときには自分から呼び出すし あるいは出せているときに書く そのほうが私の好きな柄が出るから

歌もそう 充ち足りたところからは出ない、あまりきれいでないものを出したい 私もそれを確認したい、そしてわざわざ人に見せるならそんなものがいい

そういうタイプの変態はきっとありふれている、私もその一人

いわゆる うつ くしい というそれとか。

それだけでもないけど

 

だからここですることは あまり心配しないで見てほしいと思って

いや、もしも見てくれるならだけど

ここはデフォルトで日陰の心の置き場

以上私信

 

 

 

「図書室あと地」

褪せた桃灰色のカーペット。

この図書室は今もある実在の場所で、もう私たちの場所ではなくなってしまったところ。時間も含めて決して戻らないところ。

ここで私は友人をひとり救い損ねた、救うなんて傲慢だけど当時はそう思った。そして失って戻ってこなかった。

そもそもがそういう土台。

 

 

米津玄師のviviという曲の「行方のない鳥」というのはわたしの愛するついったらんどだという気がしている

今でもあの曲と私はどこか近いのだろうか、まぁここで未だに言葉をこねくり回しているうちは切れはしないか

 

 

そんなわけで予定のない休日は現実にいても意味がない、YouTubeに逃げるもよし、最近は世界線ごと飛ぶ遊びをすることもある

 

 

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猫猫みたいになりたい。

背すじが伸びる

休日の下り電車

 

またね のない再会ばかり

はしゃいで暮れる

 

解く髪が抜け落ちる うちは

恋なんて廃めと

 

舟一杯張った言い訳に

今夜も沈もう

 

夜風

夏がよろめく

 

からっぽの肺呼吸よ

弱音は掻き消えても

 

嘲りは翻れど去らぬ

がらん洞の中

 

何処へゆけば止む

何に触れれば

 

何を歌へば