図書室あと地

褪せた灰桃色のカーペット。

続き

笑い声が煩くて本から顔を上げた。放課後の教室は、いつの間にか蛍光灯が消えていた。
夕暮れ前の、徐々に薄暗くなる時間帯に差しかかっていた。ここで本を読むのが私は好きだ。空っぽになった教室、それそのものが休み時間になったような、静寂が時を支配する空間。その隅に居場所を借りるのが、お気に入りだった。いつもならば。


今日は何人ものクラスメイトが残っていた。来週は期末考査がある。部活動が停止され、まだ帰りたくない輩は教室で暇を潰し始める。中には真面目に自習をする人もいるが、大抵は無駄話に興じているだけだ。黒板や掲示物に落書きをしてふざけ合う人、窓際の席に集まって何やら話し込む人達。普段は見かけない組み合わせが群れていたりもする。さっきの笑い声も、その場限りの寄せ集めグループが発したものだった。大きな声で騒ぎ、時々金属を擦り合わせたような声でわざとらしく笑う。「居残り組」の連帯感が生むのだろう生温い交流が、私にはどうにも白々しく映る。
開いたままだった本のざらついた背表紙を指で撫でた。紙の上はただ文字列が広がっているだけだった。さっきまで没入していた世界は、泡が弾けたように跡形もなくなった。本の中に戻るのはもう諦めて、付属の紐の栞をページの間に挟む。漏れかかるため息はすんでのところで呑み込んだ。
教室の様子をそれとなく見渡しながら、ここで立ち去ったら目を引くだろうか、と考える。もう帰る他にすることもなかったが、逃げるように出ていけば
この連帯への反感を気取られないとも限らなかった。今日も明日もその次も、決まってここに来る人間にとって、それは文字通り致命的な不都合だった。見えない同調圧力に逆らわないため、私は動かないままでいた。


教室の中は相変わらず騒々しい。普段、グラウンドからの音しか聞こえない静寂に慣れた感覚では、この状況はひどく似合わないように思えた。
程よい非日常が心地よいのだろう彼らは、だかもう一方にあるものを無自覚に壊していく。自分とは関係ない隣り合わせの日常、他人の安息。その燃え殻の上で笑っていながら、まるで気づかない風だ。見えないから、想像するのがそんなに難しいのだろうか。明るい人ほど、群れる人ほど、声の大きい人ほど「そんなこと」に鈍い。

 


「え、部屋暗っ。電気つけるよ?」


声がするのと、白い光の明滅はほとんど同時だった。そのとき教室に入ってきた彼らの仲間が、当然のように薄暗い部屋の明かりを点けた。
窓から入る微かな太陽光線はたちまち追い出されて、目に痛い光が教室を充たした。机椅子の影は散り散りになって落ち、その場にいる知った顔がいやにはっきりと見えた。眩しそうに瞬きする顔、後ろを振り返る顔、入ってきた友達に笑いかける顔、顔、顔。そこはもう、私の知っている何処でもなかった。私は静かに席を立った。
即座に幾つかの目が私の動作を追って、そして、逸らした。タイミングが最悪なのはわかっていた。それでも、居場所のないところに座り続ける不快感はもうたくさんだった。せめて物音を立てないよう、神経を尖らせて椅子をしまう。連帯の外にいた者の退出に、幸い殆どの人は興味を示さなかった。
扉を閉める瞬間に、クラスメイトの一人と目が合った。相手は咄嗟に笑顔を作ろうとして中途半端に顔を引きつらせた。背を向けながら、自分はいまどんな顔をしていただろうなんて考えが襲う。苦い気まずさを舐めながら、騒がしい声の洩れ聞こえる廊下に出た。

 


外を歩いても人が多かった。普段は数える程の人通りの道なのに、今日はひっきりなしに人とすれ違う。いつもより少しだけ早い時間に出てきてはいるが、そんなに小さなタイミングでここまで変わるとは思わなかった。
商店街の人混みを尻目に、手前の細道を左に入る。本当は、ここをまっすぐ通り抜けて街の中心を帰るのが近道だ。ただ人が多いので、買い物の用事がある日以外は遠回りでも別の道を行くことが多かった。特に今日は、もう出来れば人に会いたくなかっし、いつにも増して人が多い通りを見ただけで酔いそうで、道を曲がった。
建物の裏が連なったような細道に人影はなく、私はようやく深く息を吐いた。歩く速度を落とし、道の真ん中をひとりごとみたいにぽつりぽつり歩きだした。
日の傾いた方角から、微かに風が吹く。頬にさわりながら流れていく空気の形も見えそうだった。庭の隅で背丈を伸ばした草が揺れるのを眺めながら、暫く立ち止まっていたいような気持ちになりながら、それでも足は止めずに。こんな他愛もないものが愛おしいのは、帰り道だからだ。それを知るくらいにはじゅうぶん長生きした気持ちになって、歩き続けた。


やがて踏切に出た。遮断機は閉まっていて、警報機がカンカラ鳴っていた。住宅街の中だからなのか、心なしか音は抑え気味だ。
赤い光が上下交互に光るのをぼうっと眺めて立ち止まる。ここの踏切は長い。人っ子ひとりなかった道に、ひとり、ふたりと姿が見え、踏切待ちを始めた。薄暗くなりかけて、向かいの人の顔の輪郭も覚束ないような視界。居心地は良い。なつかしいような風景だった。明かりも点けずに居残りをする、いつもの教室に射す夕日をおもい出した。そして今日のことも、同じ場所から引き出されてきた。級友の引きつった笑い顔が蘇った。経緯はなんであれ、あの表情を強いたのは私に違いない。
私が、いなければよかったのかもな。そんな思いがぐらりと湧いて出た。悲観するのでも、いじけるのでもなく、ただ淡々とした感想がその通りだった。珍しくもない感覚だった。私がいなければうまくいくこと、正常に動く日常。そんなものに思い当たるたびに、静かにそれを受け入れた。いなければいい、といってもいなくなることはなくて、結局そこにいる私も。いなければいい、のに。それも含めて、諦めて、目を閉じる。
瞼を閉じても、薄あかい世界が見える。赤い光の上下もわかるほど、そのまま。


足のあたりの空気が動いて、薄く目をひらいた。滲んだ視界の脇を黒い影がすり抜けていった。
踏切の音が急に大きくなった。私は顔を上げた。