図書室あと地

褪せた灰桃色のカーペット。

ユメミゴト

 

「…あと2%」
午前10時。外の雨の音。起きがけの布団の中。スマホを確認するルーティン。
電池残量を思わず読み上げたひとりごとは、誰もいないワンルームに吸い込まれて消えた。


通知バッジのついてないメッセージアプリを開く。「友だち」は17人。実際はもっと少ない。上から4人目のトークルーム。手遊びに履歴を遡りながら、書くことを頭の中で組み立てる。考えずに書き始めたほうが早いけど、これもルーティン。


『いまから君んち行っていい』
文字で打てばこれだけの形。ハテナの記号すらつけない問いかけ。つける時もある。違いはほんの気分だけど、そういうところは誤差なく伝わる相手だと思っている。だから、これだけ。


右側の紙ヒコーキのアイコンをぽちっと押す。瞬間、


ぷつっ。


ブラックアウト。本当の電池切れなんていつぶりだろうか。お陰で今のメッセージが送れたかどうかもわからない。けど、まぁいいや。


やっと起き上がって、もぞもぞと掛け布団を外す。
支度は30分。そしたら、出かけよう。

 


 


ごとごと、電車に乗って。傘を持ってこなかったせいで、髪がすこし濡れている。雨が窓につけるナナメの線。昨日よく寝たから、座っても眠くはならない。スマホが使えないせいで時間を持て余すけれど。
持ってきた鞄を漁る。底から黒表紙のノートを発掘した。文字が書いてあるのは最初の十ページくらい。あとは真っ白。
このノートを最後まで埋めたら、どうするか決めよう。諦めるのか、追いかけるのか。そんなことを難しく考えて、ちょっとページ多めのを買った。でも、途中で書かなくなった。いつもそうだ。こんなノートを何冊も持っている。
ほんの暇潰しで、最初のページから目を通してみる。書き出しだからって無理をした、ばか丁寧な字。昔の詩人の言葉尻を真似た、かっこつけが妙に駄作いポエム。誰に見せるわけでもないんだから、そんなに肩肘張らなくていいのに。ほんの2,3ヶ月前の自分にひとりごちて、ページをめくる。
今度は見開きに2行だけ。殴り書きで、


『思い出すたびに忘れていくことを知る
生きているフリをするこの時間を数えて』


とあった。
いや、わかんないよ。ただ浮かんだ言葉を書きつけたんだろうけど。今さら続く言葉も出ない。何を言おうとしたのか、書いた張本人にすら伝わらないメモ。後のページも大概そんなのばっかりだ。
こんなにくだらなかったっけ、自分の言葉。数年前はこれでも、たまには「いい」とおもえるやつを書いてたはず、なんだけど。
修正のひとつでも加えようかと鞄の中を探したけど、ペンなんて一本も入ってなくて笑ってしまう。


あきらめたほうがいいよ。
なんて、本当は言われなくてもわかる。でも結局、ある時期になればまたノートを買ってしまう。書くことなんかないのに。伝えたいことがまだ残ってるかもわからないのに。ずっと繰り返している。何でなんだか。のうのうと生きてるだけの自分が、その行く先が不安なのかもしれない。
でもさ、そんなものから出た言葉は誰にも通じないよ?
わかってるんだよ、それも。


電車が川を渡る。空の灰色と混ざったような、濁った水色。『川ってのは、境界を意味するんだよ』とか、文学講読の先生が言ってた。風や水や、どこにでもあるような動力。そういうものをきっかけにして、変わっていくのが物語りのきまりごと、らしい。
だから、風の強い日とか、雨の日とか、毎日乗る各停が川を渡る瞬間とか。思い出すたびに言い聞かせてきた。
何か、変わるぞ。
どんな形でも、どんな方向にでも変われたら。それは、ここじゃないどこかへ行けるってことだから。


車内アナウンスが降りる駅の名前を呼ぶ。減速の抵抗で左半身が重い。転ばないように、ゆっくり立ち上がって歩いた。
ドアの隙間から雨の匂い。傘は持ってないけど、歩いていけばいい。

 


 


「来るときから降ってたよね?傘くらい持っててよ。まったくさぁ…」


歩いていけても、それが正しいとは限らないらしい。
しとしと穏やかに降る雨も、浴びているうちにはずぶ濡れになる。目的の家に着くころには、鞄の中以外全身びしょびしょ。出迎えてくれた家主の、あんなびっくり顔は久々に見た。
脱ぎ捨てたTシャツは、ぞうきんみたく絞られて吊るされている。タオルと部屋着を借りて、床の上に小さく座った。

 


「大丈夫だと思ったんだよ。…思ったより、大丈夫じゃなかったけど」


「何もこんなときに来なくても」


「だって、充電。切れちゃったし。こないだ来たとき、充電器。忘れてったまんまだったし」


「…わざと置いてったくせに」


「…何のことかなぁ。よくわかんないな」

 


はぁ、と呆れたため息。わかってるんだよ?とでも言いたげに覗き込む目線。…じゃっかん、睨まれてもいる。そんな顔をさせたいわけじゃないんだけど、なぜか毎回こうなってしまう。

 


「…何がなくたって、いつでもうちに来ればいいじゃないか」


トーンを落として、ついでに目線も落ちて。ひとりごとみたいにこぼす。そこに本心があればあるほど、言葉は核心の脇を掠めていく。ぜんぜん触れてこないのに、却ってそこにあることを識らせてしまうような。


「うん、そう思うんだけど。…ほんとにね」


目が合うと、こわばった表情がふと緩んだ。一瞬、陽炎みたいに目の奥がどろっと揺れる。

ほら、見つけた。同じ穴。

 


コードにつないだスマホ。まだ電源は入れてない。
雨の音は優しかった。どんな鍵よりもかたく、この部屋と外とを隔てて閉じていた。


たとえば、この世界に2人きりだったとしても。きっと失わずにはいられないんだろう。
いつかあいた穴から、時間は流れ出している。だれも知らないうちに、この部屋から刻々と時間が消えていく。生まれた空白に過去が入り込む。部屋が過去で埋まったら、それっきり。どんな約束も「またね」の言葉も、意味なんかなくなる。


気づいてしまったのは、繰り返した反芻のせいだ。
感じる器官を閉じて。ひとつのことを、おもい起こしては抉って、生きている今日と重ねて。かさぶたになる頃にまた穿って。癒えるのを待ちながら、考えを巡らせる。やがて全部が、はじめから最後だと識った。たまたま続くのは、結果でしかない。だから、君との間には欲しかった。言葉や約束よりも、カタチのあるおまじない。それも気休めにしかならないとしても。


ここに来るたび、忘れものをする癖がある。あるいは借りものをするか、「うっかり」持って帰るか。何でなのか、説明したことはないけど。彼もなんとなく気づいている。
それもそうだろう。何にもなかったような顔で歩いていたって。すり切れるほど繰り返し見た記憶の中には、まちがいなく彼もいたから。おなじものを見て、おなじものを失って。形は違っても、答えを出した。それぞれに歩く答えの上で、今は手を繋ぐこともできる。けど、明日のことはわからないから。彼にはもう少し、この悪癖に付き合ってもらおう。
ただ充電器は、もう忘れないと思う。あれがないのはさすがに、結構困った。

 


帰りの時間になっても、あいかわらず雨は降っていた。
傘を貸してもらったけど、行きにも着ていたTシャツが乾いてないから、あんまり意味はないかもしれない。『じゃあ貸さない』とか言われそうだから、彼には言わないでおく。

ふたり並んで歩く。駅までは遠いから、いつも大通り手前のコンビニのとこで別れることに決めている。


「…明日も雨なんかな、これ」


「知らない。…お天気おねーさんじゃないし」


「…そりゃそうだ」


沈黙を埋めるだけの会話。あってもなくてもいい。中身なんかない。こんなとき、何から話せばいいのかわからなくなる。雨の音が耳元で跳ねるから、息苦しくはならない。
それから、ただ横顔を見ていた。傘の向こうの彼はたぶん気づいてない。気づかないでほしいけれど、目が合えば始まる話もあるのかも。ないものねだりだ、ただの。


コンビニの前まで来た。奥の大通りを左に曲がって、ずっと歩けば駅に着く。


「バイバイ」そう言う彼に、
「またね」と返した。


立ち止まるひとと、歩き続けるひと。ひと言だけ交わして、手を振って、別々になる。
彼はずっとこっちを見ている。わざわざ確認しなくてもわかる。いつも、お互いが見えなくなるまでそこにいるから。


通りの手前で振り返って、もう一度手を振った。彼が手を振り返すのを確かめて、角を曲がった。

 


歩きながら考える。何か伝え忘れたことはなかったか。言っておくことはなかったか。もし言えないまま「これっきり」になったら、ずっと心に残ってしまうような何かがあるんじゃないか。

何かしら、あるような気がするけれど思い浮かばなくて。やがてそんな考え事も人波に流されていく。

 


スマホの電源を入れる。新着通知、1件。メッセージを開くと、


『◯』


マル、のスタンプがいっこ。今朝、彼から来ていた返事だ。確認するのが今さらすぎた。
あまりにそっけなくて笑ってしまう。本当なら、こんなに簡単に済むこと。自分で難しくしているだけなのも、ちゃんとわかっているつもりだけど。なおらないから、もうしょうがないや。
呆れ笑いしながら歩くよ。


電車の中。行きよりも混んでて座れなかった。こうなると、借りた傘がほんの少しだけ、お邪魔な気もする。
鞄からボールペンを取り出した。さっき駅の売店で買ってみたやつ。それから、黒表紙の厚めのノート。ずっと鞄の中だったから、雨ざらしになってもシワひとつ寄ってない。
ページを開けば、やっぱりさえない言葉たちが漂っている。何を書いたらいいのかわからないまま書いた、どこにも届かない断片。もともと、たくさんのひとに伝えたいわけじゃなく。ただひとりでも、必要なときにそこにあればいいと漠然と思ってきた。
でもそれ以前に、書きたいものをちゃんと書かなきゃね。


よく見ればある。
自分にあいた穴とか、手の中にあるもの。それはここにしかないもので、誰かと繋がってるもの。
大事なことほど、言葉にするのは難しいから。ここにあるものさえ壊してしまいそうでこわいけど。
へたくそもこわがりもそのままでいい。ってことにして、とりあえずここから書き始めよう。


車内に響くレールの音が変わる。橋の上まできた。
電車が川を渡る。