図書室あと地

褪せた灰桃色のカーペット。

私と言葉と金と(余談)

「書くこと」がそんなに得意ではないかもしれない。

というか、得意ではない、いま。他の上手なひとたちと比べて。

でも、書くことを特別に思っている。たぶん、他の周囲のひとたちと比べて、つよく。

 


人前で言葉を話さなかった時期があった。学校は、会話も挨拶もなく終わる毎日だった。高校生のころだ。みずからそれを選んだ。

形にしたいこと、はぜんぶ書き言葉にした。これだけあればいいんだと思った。私にとって、言葉は特別なものだった。

 


しょせん言葉だ、と思っていた。直接だれかの助けになりはしない。直接何かを変えられるわけではない。

されど言葉だった。言葉なら、顔を見たことがない人にも届く。ときには時代すら超えて伝わる。「ほんもの」をすぐ身近なところに置いておける。そして、最悪の場合人を殺せる。

 


話すことが苦手だった。だんまり馬鹿は3年経ってもわからない、という言葉があるらしいけれど、本当に話せば話すほど、馬脚をあらわす感じがして身動きがとれなかった。

今は「何でも出来そうで何もできないよね」と言われる。何でもかんでも動こうとして、失敗をたくさんしたから。それが楽だ。無能も馬鹿も、知っておいてもらえた方が生きやすい。でもちょっと前までは、そう思えなかった。

話すことが怖かった。何よりもまっすぐに伝える手段が「書き言葉」だった。

 

 

 

大学生になり、社会人になり、少しずつ話し言葉を使うようになった。それでもなお、私がよりつよく、嘘をつかずに伝えられる方法は書き言葉だと今も思う。

ただし、新たに気がついたこともある。書き言葉が一番しっかりと伝わるのは、また伝わってほしいのは、普段よく話をしている人たちなのかもしれない。

 


ありがとう、を伝える。頑張ろうぜ、を贈る。あなたは大事なひとだと知らせる。さよなら、をちゃんとする。

 


こういうとき、どうしても適当な言葉に落ち着きたくないと思う。体のいい文章なんか書きたくない。伝わるように。時間をこえてふと見返したとき、思い出したとき、背中を押せるように。ひとりにしないように。心が心に届く言葉を渡したい。そう思って書いている。

 


ちょっと前に同期の営業車に乗せてもらったら、見覚えのあるものがあった。10ヶ月くらい前に書いて渡したメッセージカード。お菓子に添える程度のひと言ふた言だから、とっくに捨てたと思っていた。

ひとり立ちの直前だったから、一瞬でも力に変えられるようにと言葉を選んで書いた。それをずっと持っていてくれて。あの頃から車も変わったのに、片付ける機会だって何度もあったのに。仕舞い込むわけでもなく、見えるところに置いてくれていて。ありがとう、と溢れてしまいそうなくらい嬉しかった。

 


私はこういう風に生きていきたい、とそのとき自覚した。

 

 

 

 


私と言葉と金と。

まだ金の話をし忘れている。それは次のときに。