図書室あと地

褪せた灰桃色のカーペット。

私の社用の色んなもののIDとパスワードは、社内の人間ならいくつか試せば開けるほどシンプルにしてある。そこに私個人のものはあるべきでない。総務として色んなものを覗いてきたからそう思う。

平日の私がしたことは、会社に属する人間のしたことだ。そこでの成果は会社のものであって私のものではない。

つまるところ、平日に私の人生はない。

休日になにもしないとすると、私の人生はどこにもないとすら言えてしまえる。

 

人生に意味はあるべきだろうか。

仕方なく生きていても生きていける。仕事をすればお金が入り、お金があれば「食べていける」。食べていけることはおよそ生きていけることと同じだ。ところで世のおとーさんたちの言う「働かないと食べていかれない」は生きる意味だ。自分が食べること、自分が生きることそれだけでは意味とは言えないかもしれない。けれど食べさせること、生かすことは大切な大切な人生の意味だ。

 

食べさせる相手も生かす相手もいない私の「働く」という行為は生きる目的でなく手段だ。結婚でもすれば、子どもを育てれば変わってくるだろう。ただ私にそんな予定はない。気配すらない。私はこれからもずっとひとりかもしれない。

そうなれば働くことは未来永劫私の生きる意味ではない。私という箱を生かすためだけに働いているうちは。なら死んだほうがましだと勢いこめるほど命に対する執念は軽くない。歳を重ねるにつれて死ねなくなっている。魂が身体にすっかり根付いたように。それこそ中学生のころなんか、生きられない状況になればすぐ手放せるように思っていたのに。

 

そうは言ってものうのうと生きているだけの自分はいとわしい。箱だけ生きていても虚しいばかりだ。そんなに生きたいなら何かしてみたらどうだ。

 

今日は散歩に出た。普段の自分の商圏まで歩いて行ってやろうかと思ったが、炎天下の中流石に遠く断念。最寄駅の隣の駅まで歩いた。時間にすれば1時間くらい。

 

歩道橋の階段が赤かった。段鼻の滑り止めが緑で、すいかみたいな色をしていた。

踏切に遮られた道の途中、水路の脇で白い花が咲いていた。茎が菊の花くらい太くてまっすぐ立っていて、まるで何かの弔いのようだった

ただ、通りの反対の花壇に同じ花がいくつも植わっていた。そこから種が飛んだだけだとわかった。

 

汗だくで駅前のコーヒー店に飛び込んで、アイスティーを飲んだ。どうしても歩いて帰る気にはならず、電車で最寄駅まで戻った。

 

駅の自販機で見つけた「ブルーハワイソーダ」にはっとした。「ブルーハワイ」という言葉からこんなにも遠い夏は初めてのことだと、ここまで来て気がついた。

 

歩きながら、書くこと、について考えた。性懲りもない。何度目の堂々巡りだろう。但し今回ばかりは、暑さにやられて着地点が少しぶれたかもしれない。

 

書くことで何かを為そうとは、きっと考えなくてもよかった。生きる意味となれば。それすら替りが見つかるまでの気休めかもしれない。何を書くかは問題ではない。こんなつれづれだろうが今日の私は残した。空白の外の私の痕。

書くか、書かないか、それだけ。